2009年 08月 31日 |
responsibility【責任】vol.05
本日は8月最後の1日です。
そして・・・。
そ、そして・・・・・・・。
コムハウスの協力業者さんキラー:有田嬢の誕生日です(^-^)♪
きっと、このblogを見て
明日はオジサマ達からの大量の差し入れが入ってくることでしょう~( ̄▽ ̄*)///
朝のミーティング時に
コムスタッフみんなからお祝いです!!!
年齢は・・・( ̄□ ̄;)!!!!!!!!
気になる人は、本人に直接どうぞ~(^0^)♪
とうことで、
8月最後のblogとなりました。
つい先日、映画『20世紀少年 最終章<僕らの旗>』を見てきました。
実は今月のテーマを考えさせられた映画。
割と映画に感銘を受ける人間です(-_-;)
自己責任」「結果責任」というのは、
一歩間違えば、スケープゴート探しの道具になってしまいがちです。
これらの呪文を唱えておけば、特定の当事者以外に火の粉降りかかる恐れはありません。
スケープゴートになってしまった人を除けば、まことにありがたい呪文です。
でもそのせいで、人々は責任問題に敏感になってしまい、
「出る杭は打たれる」から、出ないように気をつけ、萎縮してしまいます。
まともに議論がなされるのであれば、
「自分のしたことにはきちんと責任を取れ」と言えますよね?
しかし、まともな議論がなされない場では、
「責任を取る」と言ってしまうと関係ない責任まで全部押し付けられてしまう危険性がある・・・。
そんな場で「責任を取れ」と言う人こそ無責任な行為だと思う。
僕たちの多くは、
自分では人に「責任を取れ」と言うが、どうすれば責任を取ったことになるのかがよくわかっていないのではないですか?
そういう人たちには、自分が責任を取ることに対する恐怖が存在しているからです。
なぜ恐怖なのかというと、何をしたら責任を取ったことになるのかがわからないから。
「責任を取る」と言ったが最後、何をしても「そんなのは責任を取ったうちに入らない」と言われるリスクがつきまとう。それが理由です・・・。
結局、そんな風に責任を取ったところで何になるというんでしょう?
結果として物事が良い方向へ向かわなければ、
その責任の取り方は間違っていると思います。
正しい責任の取り方を身に付けること。
自分のしたことを説明し、なぜ起きたかを明らかにすること。
これが正しい責任の取り方だと思います。
そして、それで責任問題は終わりです。
その後、どうするか。それはその人の自由です。
せっせと償いをしてもいいし、ケツをまくって逃げてもいい。
何でも、自分がしたいと思うことをすればいいんです。
自分の自由を受け入れられない人は、こういう場合に「償いをしなくてはならない」と考えてしまう。「ケツをまくって逃げる」という選択肢を思いつかない。
もちろん、ケツをまくって逃げろ!!と言っているわけではありません。
「償いをする」というのも自分の自由な選択によるものであるということを認識することが大事ということです。
「償いをしなくてはならないからやった」というのは、自分の自由な選択が入っていないから、無責任な行為だと思います。
本当の意味で自分の行為に責任を持てる人とは、ここで必ず償いの選択をする人のことではなく、時には自分の判断でケツをまくって逃げられる人。
そして、逃げられるけど逃げないからこそ、責任ある行為なんだと思います。
もちろん、その結果どうなるかはまた別の話でわかりません。
それはその人のした自由な行為の結果であり、自己責任だからです。
それを誰の責任にもせず、ただ結果として受け入れ、どうしたらいいかを考える。
これが本当に『自分で責任を取る』ということなんだなと・・・。
結局、『責任』からは一生逃れられない。
だが、自分のしたことの説明くらいは一生やり続けてもいいんじゃないかな?
止まらず、
走り続けることも『自分』を証明する説明の1つではないかと思います( ̄- ̄)
Kani v(-_-)v
そして・・・。
そ、そして・・・・・・・。
コムハウスの協力業者さんキラー:有田嬢の誕生日です(^-^)♪
きっと、このblogを見て
明日はオジサマ達からの大量の差し入れが入ってくることでしょう~( ̄▽ ̄*)///
朝のミーティング時に
コムスタッフみんなからお祝いです!!!
年齢は・・・( ̄□ ̄;)!!!!!!!!
気になる人は、本人に直接どうぞ~(^0^)♪
とうことで、
8月最後のblogとなりました。
つい先日、映画『20世紀少年 最終章<僕らの旗>』を見てきました。
実は今月のテーマを考えさせられた映画。
割と映画に感銘を受ける人間です(-_-;)
自己責任」「結果責任」というのは、
一歩間違えば、スケープゴート探しの道具になってしまいがちです。
これらの呪文を唱えておけば、特定の当事者以外に火の粉降りかかる恐れはありません。
スケープゴートになってしまった人を除けば、まことにありがたい呪文です。
でもそのせいで、人々は責任問題に敏感になってしまい、
「出る杭は打たれる」から、出ないように気をつけ、萎縮してしまいます。
まともに議論がなされるのであれば、
「自分のしたことにはきちんと責任を取れ」と言えますよね?
しかし、まともな議論がなされない場では、
「責任を取る」と言ってしまうと関係ない責任まで全部押し付けられてしまう危険性がある・・・。
そんな場で「責任を取れ」と言う人こそ無責任な行為だと思う。
僕たちの多くは、
自分では人に「責任を取れ」と言うが、どうすれば責任を取ったことになるのかがよくわかっていないのではないですか?
そういう人たちには、自分が責任を取ることに対する恐怖が存在しているからです。
なぜ恐怖なのかというと、何をしたら責任を取ったことになるのかがわからないから。
「責任を取る」と言ったが最後、何をしても「そんなのは責任を取ったうちに入らない」と言われるリスクがつきまとう。それが理由です・・・。
結局、そんな風に責任を取ったところで何になるというんでしょう?
結果として物事が良い方向へ向かわなければ、
その責任の取り方は間違っていると思います。
正しい責任の取り方を身に付けること。
自分のしたことを説明し、なぜ起きたかを明らかにすること。
これが正しい責任の取り方だと思います。
そして、それで責任問題は終わりです。
その後、どうするか。それはその人の自由です。
せっせと償いをしてもいいし、ケツをまくって逃げてもいい。
何でも、自分がしたいと思うことをすればいいんです。
自分の自由を受け入れられない人は、こういう場合に「償いをしなくてはならない」と考えてしまう。「ケツをまくって逃げる」という選択肢を思いつかない。
もちろん、ケツをまくって逃げろ!!と言っているわけではありません。
「償いをする」というのも自分の自由な選択によるものであるということを認識することが大事ということです。
「償いをしなくてはならないからやった」というのは、自分の自由な選択が入っていないから、無責任な行為だと思います。
本当の意味で自分の行為に責任を持てる人とは、ここで必ず償いの選択をする人のことではなく、時には自分の判断でケツをまくって逃げられる人。
そして、逃げられるけど逃げないからこそ、責任ある行為なんだと思います。
もちろん、その結果どうなるかはまた別の話でわかりません。
それはその人のした自由な行為の結果であり、自己責任だからです。
それを誰の責任にもせず、ただ結果として受け入れ、どうしたらいいかを考える。
これが本当に『自分で責任を取る』ということなんだなと・・・。
結局、『責任』からは一生逃れられない。
だが、自分のしたことの説明くらいは一生やり続けてもいいんじゃないかな?
止まらず、
走り続けることも『自分』を証明する説明の1つではないかと思います( ̄- ̄)
Kani v(-_-)v
by com-haus | 2009-08-31 22:57 | ニュース